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KANIやベルボンやハクバはキレキレだろう

 ともかく。。言ってみる、打って出てしまう、今の時代はそれしかないような気がする。
 所属する業界紙のほうのコラム欄にも書いたのだが、今は占星学的に言うところの水瓶座の時代らしい。ちょうど太陽の方角にある星座の質が、その時期を特徴付けるという考え方である。古くはプラトンから、近世では心理学のほうのユングも唱えていた説のようだ。

 で、その水瓶座の性質だが、ズバリ、既存のルールや価値観からの自由だ。これまで、悪い意味で守ることを強いられてきたような暗黙の了解や、ソンタクなど気にすることはない。言ってみる、やってみるのだ。結果などもこだわらなくてもよい。

 例を挙げると。日本人の場合は特に、キレるのは幼児的だとか、頭が悪いとか言われる。もちろん、ところ構わずキレるのは、脳神経のキレてる人なのでまずいのだが、どうしても自分にとって主張すべき時は、堂々とキレてもいいのではないのだろうか。

気をつけるべきは、そのキレるほどの主張は、必ずしも斬新なものにこだわる必要はないということだ。というか、新しいものを主張しなければいけないというのも、固定された考え方だ。これに拘束されるのも本末転倒というわけだろう。

周知のように、日本では幕末の頃に唱えられたのが、尊皇攘夷思想だ。この思想は、当時の幕府主導の佐幕思想が蔓延するなかでは、キレた思想だ。だが、内容的には古色蒼然たるの極みであった。でも、それでいいのだ。一方、それから少し後には、福沢諭吉が天賦人権思想を語った。これは当時からみると全く新しいものだが、これはこれでいいのだろう。

つまり、こだわらずに己の欲するところに従い主張すべきは主張すればいいのだ。

写真用品の分野では、そういう広い意味でのキレキレの志向が見られて頼もしい。商品で言えば、まずは以前に取り上げたKANIのフィルターである。手頃で幅広い層を狙った商品がおおいなかで、角形をメインに置き、アドアマ層に絞っている。日本では逆に、まだまだ角形のような拘ったマーケットが未開拓なのだから面白そうだし、だいたい、このメーカーには信念を感じる。期待したい。

一方、企業そのものの動きとしては、ベルボンやハクバが、ある意味キレている。写真業界ではなく、雑貨や育児用品のほうに志向するのは新しい。本来の自分等のベーシックな部分を忘れないのであれば、何としてでも生き延びてやるという意欲は感じるし、フロンティアスピリッツは素晴らしい。これは先日の雑貨エキスポ(写真)でつくづく感じた。

まさに、KANIフィルターやベルボンとハクバはキレキレの存在、なのだ。

ところで、今回の雑貨エキスポでのお洒落なベルボンのブース作りは広報のマタサンがメインでやったらしい。。ボディビルで身体を鍛えたと思ったら、今度は女性受けするブース作りか。。1人だけモテまくろうという肚だな。ずるいなぁ、マタサン。

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ハクバのスタンド型台紙は日本文化に添ったアイテムだ

 日本の人々は、古くからオトシドコロというものを考えていたようだ。
 何か争いが起きる。これがどうしても曖昧にできないことであれば、もちろん徹底的に争い白黒はっきりつける。だが、世の中の多くは、争うほどでもないレベルのものが多い。さらには、そもそも争っても意味がないというケースもある。

 前者の場合は、単にお互いの個人なり団体の好き嫌いが絡んでるケースだ。この場合は、どうでもいいようなレベルのことでも気にさわり争いを始める。後者の場合は、自然現象なり宗教上なり信念上の論争なりがきっかけで起こる場合だ。これは、そもそも変えようがないことだから争っても意味がない。

こういう場合はどうするか。西洋諸国の場合は、それでも争いシロクロつける方向で行く。法律を持ち出し相応の決着ともする。なんだかんだとゆるがせにしないのだ。だが日本の場合は違う。一定のオトシドコロを持つのだ。

それが、幽霊や妖怪、あるいは前世からの因縁などのような仏教的なものだ。こういう割りきれないものが介在しているから仕方ない。お互いに程よくあきらめ円満に行こうということになる。逆に、この超自然的な事象が最近は信用されずにつかえなくなってきてから、個人間でも過激な争いが起きるようになったのではないだろうか。

ミスが多い秘書でも、前世からの宿縁、ご縁の人間と思えば、ハゲぇ、などと叫ぶ気持ちも出なかったかもしれない。

ところで写真用品である。先日のフォトネクストの会場でハクバブースに行ったところ、ちょっと面白い工夫を見た。立つ台紙、である。確かに、台紙で大事な写真をもらったら飾りたいと思うが。額など探すのも億劫になり、そのままというケースもある。これなら、もらってそのまま立たせられる。しかも手軽な感じだ。うまくオトシドコロを考えた商材なのだ。

まさに、ハクバのスタンド型台紙は日本文化に添ったアイテム、なのだ。

しかし、オトシドコロだよなぁ。。こちらなど酒場では財布とのオトシドコロの日々である。
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KPIの高級バッグ発売は素晴らしいチャレンジだ

 負け組と言うと、当然ながらマイナスイメージがある。だが、こちらはそうは思わない。
 むしろ、負け組だと堂々と言えるのは大したものだと思う。何故なら、少なくとも懸命に戦ったということだからだ。堂々と懸命に戦う。そのあとの結果など、運次第だ。大したものではない。それは批判する奴も居るだろう。だが、傍らで見てる奴の言うことなんぞ気にしなくていい。

 問題は戦いもしないケースだ。それでも、戦わないことを自己の弱さ、怠惰さと認識しニヒリズム的に居るなら、まだいい。最初から高み的な立場にたって無自覚に批判するのは最悪だと思う。

 だから、ともかく自分の手でやってみることなのだ。これは業界紙のほうのコラム欄にも書いたのだが、今の専修大学の前身である旧制専修学校を立ち上げた4人の若者がいる。彼らなど、まさに先が見えないのにチャレンジし戦った典型だろう。当時は何しろ、恐ろしいことに日本語で法律を学ぶ場がなかった。帝国大学は英語の授業だったし、司法省の学校はフランス語のみだった。日本人が受ける授業なのにだ。ちなみに帝国大学は、数学の講義もそうで。このために、あの正岡子規など中退してしまった。これでは、おかしい。当たり前のことを当たり前に考えて4人の海外留学帰りの若者らがチャレンジしたわけだ。この精神は凄い。

もっとも、彼らはたまたま今に残る学校を作れたのだが、同時期にチャレンジし創立された学校の中には、残らなかったところも多い。また、反骨のジャーナリストが作ったある学校などは、今に高校として残ったものの、いわゆるヤンチャ系の生徒が多く。別の意味で反骨精神を発揮してしまっている。

だが、どんな結果になろうと。戦ったということは重要なのだ。チャレンジだ。

ところで、写真用品である。KPIというプロ機材系の会社が、このほど一般的にも使えそうな高級バッグを発売する。これは、チャレンジだ。戦いを挑んだわけだ。マンフロットのフィルターといい評価できるだろう。

 まさに、KPIが発売する高級カメラバッグはチャレンジの象徴だ。

しかしチャレンジだよ。今回のフォトネクストだって批判も出てくるかもしれないが。少なくとも、ネクストを提案してもらう場を提供してるのだ。素晴らしいと思う。こちらも、いい加減、チャレンジしないとなぁ。

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よしみカメラの忍者レフはレフ板の枠を超えたレフ板だ

 レッテル張りというのは、全く意味をなさないだろう。
 もはや、あらゆる概念は固定化できないのだ。いや、もともと固定したレッテルを貼れるというのは無理があったのだが。適当に安心したいがために、レッテルを貼るという作業を延々と繰り返していただけである。例えば、正義、ということを振りかざす人間は多い。が、日本で言えば戦国時代には、今ある正義などは意味のない概念だったはずだ。

もっとわかりやすい例を挙げよう。このほど、性犯罪についての改正刑法が成立したのだが、これまでの強姦罪の名称を強制性交罪に改め、加害者は男性、被害者は女性という規定を撤廃したのだ。つまり男でも強姦の被害者になるということ。これを法律が認めたことになる。こんなことは、一昔前の頭脳であれば、ついていけないことだろう。

まぁ、この事からも理解できるように。法律は堅苦しい固定的なものではなく、世の中の実情を汲むものであることもわかる。汲めない流動的な部分は、解釈の範囲で適用できたりする。法律は冷たいものではなく、面倒見の良いものだというレッテルを覆すイメージが成立する。

これは現代の事象にも当てはまる。某新聞社のコラムに、イクメンという言葉に関して、男は育児に参加しないという概念があるゆえの言葉、とあった。本来、家事育児などは夫婦で手が空いている方がタイムリーに行うべきだ。そんなことは男女同権の世の中では当たり前だ。それを女性の配偶者が行うという固定概念があるからレッテル張りの言葉が生まれて、それをネタに非難されたりする。馬鹿馬鹿しい限りだ。

そういう意味では、よしみカメラの忍者レフなどは、レフ板という概念を崩すようなレフ板だ。ともかく軽量でコンパクト。電車、バス、飛行機などのガラス越しの撮影にも最適だ。

まさに忍者レフはレフ板の枠を超えたレフ板だ

しかし、よしみカメラさんの商品名のネーミングはいいなぁ。型番だけのパターンが多い用品メーカーも見習うべきだろうなぁ。

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トキナーのFIRINは時代の文化を活写するレンズなのだ

  文化とはなんだろうか。と言われても困るかと思うが。一応の小市民的な回答を述べるとしたら『その時代、時代の習俗である』などど、わかったようなわからないような回答をして誤魔化すのが小心者の特徴である。だが、ただひとつ言える確実なことは。文化というのはその時々に生きた人間が作り上げたものであることだろう。

フィリン.JPG もっとも人が作るもの、といったところで具体性はない。○○文化といった場合は、それを象徴するファッションなりモノが必要になる。例えば、戦時中の庶民の生活を表すものとしては、モンペファッションだったりする。当時の女流作家は、これが地味すぎるので自分たちの好みの色に染めて履いていたらしいが、ともかく相対的に節約ムード漂うファッションであった。もっと言えば、元禄文化といえば、絢爛豪華な狩野派の美術作品を思い浮かべる。いずれにしてもモノで体現されるということだ。これは逆に考えると、モノを見れば文化がわかるということでもある。もっと言えば、モノそのものを提案することで、その時々の曖昧なる文化を表現して明確化することが可能ということになる。

 そんな商品が、トキナーレンズのFIRINだ。このレンズが明確化したいのは、ずばり今後のミラーレス文化というものだ。ミラーレスカメラといえば、当初こそはフルサイズの一眼に対して、お手軽な品というイメージが強かったのだが。その後、幅広い一般カメラファンへの浸透とともに、もはや独特のスタイルを持つカメラ機材の一分野としての地位を確立しつつある。また、プロでも普通に使用する人も出始めている。そんな新たなカメラ文化を表しているのがFIRINである。マニュアルフォーカスで、大口径F2かつ広角レンズでありながらコンパクトな形状を実現。高画質ながら、お手軽でかつオシャレだ。

 実は、このレンズが昨年に発表された当初は、文化を明確化するほどのものだとは思っていなかった。ケンコー・トキナー主催の記者発表会に出たのだが、スペックの説明などを聞いていても、トキナーがマニアックなレンズを出した、といった感覚しかなかった。不才のこちらとしては。だが、このレンズ開発の背景にある文化を担うというストーリーを企画担当者に聞いたところ、こちらもようやく、このレンズの深さが肝にズシンと来た、といった感じである。ケンコー・トキナーでは、最近では動画によるPRなども行っており、この商品の背景のようなものをPRしている。かなり注目したい。

 まさに、トキナーのFIRINは文化を活写するレンズ、なのだ。

 しかし・・所属している業界紙のほうで、このレンズの取材の際に企画担当者と久しぶりに会った。FBなどの書き込みからも感じていたのだが、非常に該博な知識をもったグローバルな人材であった。久しぶりの取材なのだが、妙に熱気も伝わってきた。良い年の取り方をしてきた人だなぁ、とつくづく思った・・。

フォトネクストは写真撮影環境の変革を示す場となりうるか

 今回は写真用品自体というよりも、用品メーカーさん自体が多数出展するフォトネクストについて書こうと思う。というのも、所属する業界紙のほうの取材を通じて、改めて同イベントの根本的な意義のようなものを再確認したからだ。
 写真業界関係者であれば、みな感じてると思うが。もはや写真撮影を取り巻く環境というものは根元から変化している。スマホによる撮影が当たり前になり。プリントすることなくSNSにアップする。記念撮影の業務には衣装屋さんのような異業種が参入。3Dやドローン撮影など新しい概念のものが出現している。動画だって手軽に利用されている。

 こういった新たな流れが押し寄せるなか、もはや業界というものの従来からの常識は溶解している、とフォトネクスト主催者であるプロメディアの社長は指摘する。さらに、そういった状況で、新しい流れはこんなにある、視野を広くして意識を変えていこう、それを示すのがフォトネクストであるということだ。

 実は、これまで。フォトネクストというイベントに対して、こちらはコンセプトをつかみかねていた。昔のプロ機材ショーであるIPPFやラボショー、あるいは前身であるスタジオ写真フェアをトータルで合わせたものかとか。。もっとも、こう思っているのは出展社であるメーカーも同様だったようで、似たような疑問を受けるケースが多かった。なので、今回はダイレクトに主催者のプロメディアに疑問をぶつけてみたというわけだ。なお、プロメディアの社長は、さらにターゲットとして、まだ業界の常識というやつが染み透っていない、若手層も意識しているという。

世の中を変えるのは、中心となる層ではなく。よそ者、若者、思いきった行動をするよい意味でのバカ者だと言われる。そういう意味で、若者への提案を意識し、敢えてバカ者になって実行者となり、よそ者的な幅広い出展者を巻き込むフォトネクストは、業界の改革のための場となりそうな気が改めてする。ちょうど、若い外様藩の下級武士らが思いきって行動に出た明治維新の場のようにだ。

6月21日と22日は是非、パシフィコ横浜のフォトネクスト2017に足を運んでみるのをお勧めする

 

ベルボンのUTC-63は自然の流れに沿った売れ筋三脚だ

昔から、全てを無にしたくなるような衝動に駆られるときがある。だいたい、心の中で葛藤することがあり、その後の物事の継続が面倒くさくなるのだ。例えばである。積み木を積んでいたら、凝ったものにして9分通りできたところで、その後に自分が喜んだり、人に見せたりといった決まりきった手続きが続くのが嫌になってくるのだ。これをやめて、もう一度、シンプルな部分から立ち上がりたいというやつだ。結果、積んでいたものをグチャグチャにする。

 utc63_0480.jpg人のものを崩すのではなく、自分のものを崩すのであって、それほど社会に影響を与える行為ではないせいか。この癖のようなものはなかなか治らなかった。だが、この行為は。非常に馬鹿馬鹿しいものではあるのだが、妙な爽快感を覚えて清々しい気分を残したりするから不思議だ。

 と思っていたら、そのうち坂口安吾の堕落論を読んで納得した。彼は明確な形で、この衝動後の清々しさとパワーのようなものを描写していたからだ。そう。彼が書いているように、自己の持つちっぽけなものなど破壊したところで、たかが知れている。根本的なものは残るのだから、また立ち上がっていくというわけだ。まぁ、でもこれは人間の生き方だけではなく、世の中の動きも同様だろう。破壊と建設、これの繰り返しによって社会は自然と熟成してくる。それも真理ではないか。

 やや大きな話になってしまった。だが、こういった破壊衝動と無からの開き直りによって大胆な行動に出た人間は意外に多い。福澤諭吉などというのは、身につけた蘭学をいともたやすく捨て去っている。当時は、今後の世の中の流れなどわかるわけないのにだ。彼はそういうところがあって。後年、慶應義塾の経営が苦しくなったら、閉鎖を真面目に考えた。それも、意外にあっさりとした感じでだ。さらに強烈なのは、少し前の時代の吉田松蔭だ。ともかく、自分の主義のためにはすべてのものを捨て去り突進していく。ある歴史作家が評していたのだが、もし彼が憲法改正論議に加わっていたら、全て捨てて自分たちで作り直せ、それで現行のものと全く同じものができたとしてもいいではないか、という発想をするだろう、と。

 これらに言えることは、守ろうとすると弱くなる。逆に、自分の今までのものを守ろうとしなければ、その先があるということでもある。破壊して改めて建設するという、一連の動きは繰り返すように、自然の流れかもしれない。もっとも、こちらのような平凡以下の人種であれば、守るべき身分も財産も信念もないので、破壊しても建設もなにもないのかもしれない・・。困ったものだ。

 ところで、写真用品である。ベルボンのUTC-63が売れている。カーボンタイプの徹底させた剛性と持ち運びに便利な優れた軽量性がウリだ。これなど、一度、トラベル三脚というものの利便性に偏る部分を崩して、剛性というものを大きく取り入れている。結果、持ち前の軽量性というものをミックスさせることに成功させたというわけだ。店のスタッフが気に入り客に勧めるという異例のパターンの商品だ。

 まさに、ベルボンのUTC-63は世の中の流れに自然に乗った三脚、なのだ。

 しかし・・どうも、このプチ破壊と仕切り直しという癖は良いオヤジになってもそのままだ。まぁ、フリーのライター時代も含めると、お陰で様々な業界を経験できたので、つまらない見聞は広がった。なので、良しとはするか。。と言いつつ、価格破壊の酒場でハイボールを呑んでいる。。

山田台紙の台紙とアトリエピッコロの写真封筒は日本人の心に寄り添った提案用品だ

江戸の人間の特徴として、宵越しの銭は持たない、というのがある。これは、言葉通りのもので。その時の稼ぎは宵を待たずに使ってしまおうとうものだ。

 もっとも、これは時代的な根拠がある。当時、木造家屋のみで構成されていた江戸住宅は、ちょっとした火の不始末ですぐに焼失する。まぁ、大商人らは土蔵にしまうという手はあっただろうが。庶民にはそんな術もない。そこそこ稼いで蓄えたところで、すぐに家財はなくなってしまう。その一方で、火事になればすぐに建設需要が生まれるから、仕事は発生してくる。結果、馬鹿馬鹿しいので稼いだ銭は使ってしまって、また働いて儲ければいいというやつだ。

 ここからも理解できるように、宵越しの銭説はきっちりとした根拠があるのだ。少なくても、江戸中期くらいまでは、この理論がまかり通っていた。

 だが。時代は変わる。必ずしも経済はそうでもなくなってきた。使ってしまっても後がない。そうそう都合よくプラスの現象は起こらなくなったのだ。

R_fathersday_rose_TT_blue20150521.jpg では、江戸庶民・・いや、もはや時代とともに格差はなくなったので、日本国民はどうしたのだろうか。当たり前だが、銭を用心深く管理するようになった。ただ浪費するのではなく、蓄財のために投資したり、あるいは自己投資ということで使ったり。あるいは、全く使わないという方向性に行くようにした。

 これは、まぁ当たり前のことだろう。それはそれで仕方ない。だが、問題は精神の残骸である。

 器用な日本人としては、現状に合わせて実質を変えたとしても、宵越しの銭の精神は残したのである。それは、何か。記憶を飾るという行動パターンである。あの銭を失ってしまっても美しい花火は見てやる、という記憶経験は根強く残してきたのである。

 ものはなくなる。だが、自分の楽しい記憶は残す。そのための仕掛けをいろいろと考えてきた。そのひとつが、写真というツールでもあるのだろう。しかしながら、ここで日本人の器用さが侵食してしまう。この写真分野にも、データ化という能率性を取り入れて、収納などの手間をかけることない画像保存という手段を選択したのである。

 これはこれで仕方ないのかもしれない。また、若い層に限ってそういう傾向が強いのも時代の流れととともに仕方ないのかもしれない。

 だが、そんななかで、画像保存という合理性優先の手段に対して、きっちりとした記憶の保存という、本来の記憶を飾るという江戸庶民の精神にのっとった動きをする傾向が出てきた。写真をプリントして、額縁に飾ったり、台紙に入れてギフトしようという動きである。しかも、そのためにちゃーんと日本人の合理性にも考慮している。受け入れやすいような形にして提案しているのである。

_S0A3182ピッコロ.jpg そういう意味での写真用品である。まず、台紙では本欄でも度々登場させている山田台紙である。ここは、手軽にかつ品質の良いものをギフトする台紙ということで提案している。デザインもイベントごとに設定されており、柔軟だ。これからなら父の日ギフトだろうか。さらに、これは用品メーカーとは言えないかもしれないが、写真家の鈴木さや香さんが自身の店であるアトリエピッコロで提案する「写真封筒」である。写真を封筒にして残して楽しく送ったり、飾ったりしようという提案だ。台紙にしても、封筒にしても今の時代の日本人にマッチしつつ、精神に働きかける写真商材なのかもしれない。

 まさに、アトリエピッコロの写真封筒と山田台紙の台紙は日本人の心に合った提案用品、なのだ。

 しかし・・宵越しの銭は持たない。そうだよなぁ。基本、少ない原資をやりくりしてでも呑んでしまう。酒に消えてしまうのだ。これを、自己投資などというものに使ったら、もっと偉い人間になっていたかもしれない。。とりあえず、そのことを酒を呑みながら反省することにする。

インダストリアのバッグはどこでも輝き人を惹きつけるのだ

「そこのみにて光り輝く」という映画を観たことがある。まぁ、その内容などはどうでもいい。問題は、このタイトルである。これは、実は一般に当てはまらない言葉ではないかと思うのだ。

 特に人間力というものに関してだ。というのも、一箇所で輝いている人間というのはどこでも輝くものである。

 具体的な例を挙げよう。起業する人間のパターンである。今まで、脱サラして起業する例を公私ともに結構見てきたのだが、一応の軌道に乗せていくタイプというのはサラリーマンとしてもそこそこ優秀だったタイプが多い。いち組織人としても、そこそこ実績をあげて輝いていたのだが、さらに発展を期して独立したという感じだ。一方、うまくいかないタイプは、その逆だ。今の会社が嫌だとか、人に遣われるのが嫌だ。上司が嫌いだ、などと不満を根っこに起業するタイプだ。これはうまくいかない。

 117208447_o1.jpg理由は簡単だろう。起業するということは会社を経営するということだ。業務に関わることをやっていればいいというものではない。雑用も多いし。何よりも、対人関係の極致とも言うべき営業をやらないといけない。いや、むしろ営業が根本だろう。与えられた業務に集中できる分、不満を言いながらサラリーマンをやっていたほうが楽なはずだ。そのある意味、面倒くさいことはしなくてもいい業務さえから逃げているのに、その何倍も大変な起業などできるわけがない。一度起業しても、すぐに、その現実を突きつけられて、結局また逃避してしまう。

 もっとも、個人事業主的にフリーランスになるタイプは別だ。なぜなら、どうしても組織に馴染めない体質の人間というのは一定数存在するからだ。知り合いのデザイナーなどは、まさにそのタイプで。勤め人時代は、ストレスで胃潰瘍になり、フリーになってそこそこ有名になり仕事が安定し元気に暮らしている。小説家などにも、こういうタイプはいる。

 だが、ことビジネス社会という土俵で考えると、やはり「どこでも輝く」という人間が成功するということになる。

 これは歴史上の人物を見てもそうだ。豊臣秀吉だって、織田会社の優秀な営業マンだった。もし、信長が本能寺で殺されなかったら、本人はコツコツと優秀なサラリーマンを続けていたはずだ。徳川家康だって、老舗の今川株式会社の優秀な社員だったろう。例は悪いかもしれないが、間宮林蔵だって、優秀な探検家であるとともに、有能な諜報部員だった。さらに、黒田官兵衛だって小寺家の優秀な企画部員だった。斎藤道三については、これは父子二代の業績というのが近年明らかにされたが、その先代のほうは実に優秀な土岐氏の総務部員だった。電力王と言われた松永安左エ門だって、もともとは優秀なジャーナリストだ。例外は、業界紙の方にも書いたのだが、北条早雲で。彼の京都での幕府いわば官庁のサラリーマン時代は伝わっていない。これは、多分、官庁という閉鎖性のせいか記録に残らなかっただけだろう。いずれにしても、どこでも輝く人間が起業を制する、のである。

 ところで、写真用品である。インダストリアというバッグブランドに注目が集まっている。これは、アルティザンアンドアーティストの創業者であるデザイナーの半杭誠一郎氏が立ち上げたブランドだ。同氏は、アルティザンを退任したあとは、カメラマンに転身。そこでも実績をあげていたのだが、やはりゼロからもう一度自身のブランドを立ちあげたところ、ファンがつき売上を伸ばしている。常に使う立場にたち利便性も重視。さらに、そのムダを削ぎ落としたところから来る機能美やファッション性に配慮したバッグなどである。特に、ネオプレーン式のバックパックなど、背負った際に負荷がかからずに、しかもタウンユースの雰囲気もある。もちろん、カメラバッグとして使う分は最高である。本人曰く「カメラを入れるバッグ」ではなく「カメラが入るバッグ」というコンセプトで考えたようだが、この微妙さがなんとなくうなづける。

 まさに、インダストリアのバッグはどこの場面でも光り輝くバッグ、なのだ。

 ちなみに、この欄でも取り上げたことがある真田紐ストラップやハンドストラップ、クリーナー用品などで売上をあげているサンアイの三島社長ももとアルティザンである。在職時代は営業のエースだったようだ。ちなみに、これも売上を伸ばすゲリツブランドのKカンパニーの社長や沖縄のオリエンタルホビーの社長は、もとレモン社の中枢メンバーであった。何か軌道に乗せた起業家が同じ会社に同時期にいたというのは、ちょっとおもしろい。そういえば、新撰組の斎藤一と文豪の夏目漱石は、東京高等師範学校という職場で同時期働いていたようだ。一方は名を変えての守衛、一方は金之助の名前で英語教師としてだったが・・。

ミーナの写ルンです革ケースは売れる理由が証明しやすい商品だ

 意外と当たり前のことを見落としがちだったりする。

 ここのところ、酒場で自分より下の年代の人間たちから仕事に関する相談を受けることがある。いや、別にこちらなどを頼りにしているわけではない。誰でもいいから相談したかったのだろう。というのも、話の内容をよくよく聞いてみると、転職を思いとどまらせて欲しいという要望が感じられるからだ。つまり、今の職場に不満だらけなので、何とか逃げ口を見つけたい。だが、実は転職する覚悟はない。そこで、取り敢えず同じ酒場でよく安酒を呑んでいるオジサンに転職を反対されて考えを変えるという図式をとりたいのだろう。よく背中を押す、というが、背中を引っ張って欲しいのだ。

 これは、だが人間のどうしようもない真理だろう。だいたい、ある行動に出る人間というのは、いちいち人に相談したりしないですぐに実行するだろう。相談するとしたら、実行しながらの方法論に関して意見を求めるという感じだ。なので、相談するというのは本当は実行したくないのだ。それを肯定して欲しいので相談ということになる。

 170406-80050-038-2.jpgもちろん、これは意識的にではない。無意識のうちについつい行ってしまうのだ。だが、こういった心理の深いところまでは人は考えない。シンプルに考えればわかる当たり前のことを、自己防衛のために見落としがちなのである。逆に考えれば、結構シンプルに考えたら人は、良い選択ができるのではないかと思う。

 こういった形でシンプルに考えると、ミーナーが発売している写ルンです革ケースが売れるのは理解できる。日常的に楽しめる撮影道具なら、なるべくお洒落にして持ちたいということだ。で、販売店のほうから考えると、これをお客に売れば、その客は何回も写ルンですを買い換えてくれるだろう、と予想がつく。なにせ、せっかくケースを買ったなら、一回で終わらせるのはもったいないからだ。なので、顧客に積極的に勧める商材として認識しPR。これにより、客も店員も双方ともに、ケースの売上に寄与する結果になるのだ。さすがミーナ。目の付け所が違うのだ。

 まさに、ミーナの写ルンです革ケースが売れるのは自然に証明できるのだ

 しかし・・本当にそうだよなぁ。。当たり前のことというのを人は忘れていると思う。酒場では、ビールから入り焼酎日本酒と続くのが当たり前ということだ。そちらの日常も個人的に遵守したい。

 そうそう。来週号は連休週間ということで、本欄は休むかもしれません。気が向いたら休まないかもしれませんが。。よろしくお願いいたします。